私は小口一郎なる方もその作品も知りませんでした。栃木県立美術館にて彼の作品の企画展を行うと知った時は特に興味は湧きませんでした。やっと西洋絵画のニワカ知識が付いた程度、現代アートに至っては全然理解できない私なので、そんな私が知らない人の作品を見ても楽しめるのだろうか、と見に行くつもりはありませんでした。
しかし、時間が経つにつれ「逆に全然分からないものを見に行った時にどうなるのだろうか」というへそ曲がりで天邪鬼な困った性格が発動し、何もやることが無い土曜日に買い物ついでに立ち寄ってみました。
美術館の前の木に花が付いてました。これ、画像の記録では3月4日に撮影してるのですが、桜なんて咲いてたっけ?早くね?はて何の木なんだろ。
インパクトのある顔ですね。
パンフレットを貰っていたのでそれも貼っておきます。
いつもならここに小口一郎のWikiでも貼るのですがありませんでした。それほど有名な方では無いようです。検索結果も最初にこの企画展が出てくるぐらいなので。
企画展 「二つの栃木」の架け橋 小口一郎展 足尾鉱毒事件を描く
そんな彼の企画展ですが、見終わった後、本当にいろいろと考えさせられました。
まず、この企画展が無ければ、そして私がここに来なければ、企画展のタイトルにもなっている「二つの栃木」を知りませんでした。
明治20年代になると、渡良瀬川最上流部に位置する足尾銅山より流出する鉱毒の排水による被害が大きくなり、農民の鉱毒反対運動が盛り上がると、1905年、政府は谷中村全域を買収して、この地に鉱毒を沈殿する遊水池を作る計画を立てた。ただし、これは、鉱毒反対運動の中心地だった谷中村を廃村にすることにより、運動の弱体化を狙ったものであるという指摘が、谷中村に住んでいた田中正造によって既になされている。
酷い。栃木県民なので足尾銅山鉱毒事件の事は他の地域の方々よりも知ってるつもりでしたが、この事を知らなかった自分を恥じました。
そしてこの時に、谷中村の人々が北海道に移住するんです。
1911年、旧谷中村民の北海道常呂郡サロマベツ原野への移住が開始。この地は現在の常呂郡佐呂間町栃木である。しかし、移住民のほとんどが定着に至らず、その後の帰県活動へと変遷することになる。
この移住、そして北海道の生活の様子が版画で描かれてました。また説明文もあり、当時の地獄のような日々を知る事が出来ました。酷い、本当に酷い。
今でも佐呂間町に栃木なる地名が残っております。佐呂間町のHPに栃木の説明と資料があります。興味のある方は是非読んでみて下さい。
明治44年4月7日、栃木県下都賀郡南部7町村の鉱毒と水害による生活困窮者二百数十名の一団は小山駅から北海道サロマベツ原野に向けて出発しました。
栃木県庁の吏員から「南向きで肥沃な大地」と聞いていた土地は、東、南、西を山々に囲まれた北面斜面に位置し、平地が少なく標高の高い大地でした。
オホーツク海からの北風がまともに吹き込む佐呂間町内で最も雪解けが遅い場所。
佐呂間町字栃木。ここが「もう一つの栃木」なのです。
もうさ、「オホーツク海からの北風がまともに吹き込む佐呂間町内で最も雪解けが遅い場所」の一文でわかるでしょ、本当に酷い。
資料を読むと向かう途中も酷い。4月じゃ北海道まだ雪積もってるよ。途中で帰りたいと泣き叫ぶ人もそりゃ出るよ。
現在の佐呂間町栃木を伝える記事がありました。
全員が帰県したわけでは無いようです。
栃木橋や栃木神社が残っているこの土地に、栃木県民である私はいつか訪れたい、そう思いました。
さらに、小口一郎は足尾銅山で働いていた労働者の視点でも作品を残しております。足尾銅山の労働環境は酷かったでしょうし、世間でもそう思われてるとは思います。
しかし、私が以前訪れた古河足尾歴史館に行き考え方が変わりました。
今と比べたらそりゃ労働環境は悪いでしょう。しかし、当時はどこも悪かった訳でして、とりわけ足尾銅山が悪かった訳では無いのではないか?寧ろ良い方だったのではないか?と私は思っております。
それを差し引いても、足尾銅山の当時の様子を知る作品になってると思いました。
この企画展に関して素晴らしい記事があったので貼っておきます。
この記事にも書いてありますが、「アーティストが社会運動の主体になること」の意味を考えさせられました。作品の価値って一体なんだろう?とも。
彼の作品のお陰で社会問題を知った訳で、それはその作品の価値があると言っていいのか、作品を利用して問題を知らしめようとしているのか、それはアーティストなのか、作品はあくまで媒体の一つなのか、等々。
全然答えは出ないし何が正しいのか分かりませんが、いろいろと知りそして考えるきっかけを与えてくれた小口一郎展は私にとって意味のある価値のある展覧会となりました。
あと自分が版画好きであることも知りました。