鹿沼の隅っちょから

鹿沼の隅っちょから

「鹿沼」でググった時に1ページ目に表示される事を目指していたのに鹿沼の事全然書いてません

新品の革靴を履きながら葬式の存在意義を考えてしまう

親族の通夜に行きました。

コロナ禍において葬式の概念自体が崩壊しかけている中、坊さんの何も面白くないどころか深い眠りに誘う様なダラダラした念仏を40分近くも聞かされてる内に、もうこのイベントいらねぇんじゃね?と真剣に考えながらガックンガックンヘッドバンギングしながら船を漕いでおりました。アイツ絶対睡眠魔法を唱えてたよ間違いない。

祭壇も立派でこの花は造り物だよね生花だったら金額やばいよなぁと眺めていたのですがどう見ても生花っぽいんだよなぁ、これおいくら万円掛かってるのだろうか。

感染症対策のため通夜後の振舞いも無くお弁当を頂きました。受け取った時にそれにしても大きいなとは思っていたのですが、帰宅後に見てみたら紐を引っ張ると温まる装置が付いており、そして大きく、さらには中身も一口ステーキやらアワビやら海老やらとんでもなく豪勢!おいおいこれ一個いくらで何人に配ったんだ?と慄きました。

と言うわけで、通夜だというのに不謹慎にも思いつくことはお金も事ばかりな私でした。

 

通夜に赴くとき、通勤に使っている人工皮革の安っぽい靴というか本当に安い靴しかなく、ちゃんとした革靴を一足でも持ってないといけないなぁ、と帰宅後に軽い気持ちで両親に話したらこれでちゃんとした高い革靴を買いなさいとお金を渡されました。

渡された額は2万円。

え?2万円の靴なんてあるの?というかアラフィフなのに親から金貰って靴買うとか恥ずかしくないの?と思う気持ちとわーいラッキーって気持ちが脳内で戦っておりましたが、どちらかと言うと後者が圧倒的に勝ってました、ええ、瞬殺でしたね。お金を手にした瞬間にとりあえず安い靴を買ってお金を浮かそうと思ったのですが、同時に母にとりあえず安い靴を買ってお金を浮かそうとするなよ、と寸分たがわず同じ文言で釘を刺されました。すげぇな母ちゃん、やっぱり俺の母ちゃんだ。

 

と親子の絆を再確認した翌日、革靴を購入するためシュープラザへ。鹿沼で靴を買う場合って選択肢が少なすぎるのよね。他には売り場面積の小さいABCマートか単価が高い福田屋しかないのです。カノヤは靴屋辞めちゃったしね。

www.tochinavi.net

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革靴コーナーを軽く巡回して分かったことは、1万円を越える革靴が無い事でした。図らずも安い靴を買ってお金を浮かすことが確定しました。母ちゃんごめん、そしてありがとうシュープラザ、安くて良い商品を扱ってくれてありがとうシュープラザ。

 

7,000円の高そうな革靴を購入して母ちゃん俺高い靴を買ってきたよと見せたらそうかい良かったねぇと満足そうな顔をしていたので誤魔化せたようです。ありがとうシュープラザ。そして襲い掛かる浮いたお金への高揚感と母を騙した罪悪感。どちらの気持ちが大きかったかというと、ほんの少しですが高揚感の方が圧勝でした。

ちなみに7,000円だけれども、私が今まで購入してきた中で一番高い靴だったりします。つうか一万円以上の革靴ってどこに売ってるの?あ、福田屋とか?

 

その靴を履いて告別式へ。

相変わらず眠気を誘うお経を聴きながら寝てました寝てません。やっと苦行から解放され出棺の時を迎えました。棺桶にお花を入れる時に係の方々が祭壇から花を摘み始めたときに、やはりあれは造花ではなく生花だった判明しました。

この式に一体おいくら万円掛かってるのだろうか、と考えながらも、自分が履いている新品の靴を眺めて何とも言えない気持ちになりました。お金って何かね。

 

火葬場で私はいつも泣いてしまいます。形あるものが消滅してしまう悲しさからくるのか、故人の見納めだからなのか、燃やされることで本当に死んでいることを否が応でも認めざるを得ないからなのか。私はあの扉が閉まる時が本当のお別れなのではないかと思ってるようです。

そして骨を見て、俺もいつかこうなるんだな、と再認識する作業を行ってしまいます。

 

帰宅後、玄関で新品の靴を脱ぎながら、この靴はこれからも履いていくんだよな、葬式に費やしたお金はあの瞬間で消えてしまったのかな、いや残された者たちには必要な儀式で有効な費用なのかな、費用対効果を考えたらあまりよろしくないかな、感染症のリスクを考えたら行わない方がいいのかな、そもそも私たちは本当に仏教徒なのかな、お墓ってそもそもいるのかな等々、いろいろ考えてしまいました。

あの革靴を履くたびに、私はその手の儀式の存在意義を考えるのかもしれません。