鹿沼の隅っちょから

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斗南藩 「朝敵」会津藩士たちの苦難と再起 星亮一

青森県津軽藩南部藩の一部がいっしょになって出来た県だと思っていたのですが、「斗南藩」なる存在があることを知り、この本を手に取りました。

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www.chuko.co.jp

斗南藩―「朝敵」会津藩士たちの苦難と再起 (中公新書)

斗南藩―「朝敵」会津藩士たちの苦難と再起 (中公新書)

 

なぜ会津の人達は長州の人達をいまだに許すことが出来ないのか?知識のなかった私は単純に戊辰戦争で負けたのが原因だと思っておりました。

全然足りない。

そんな程度で語ってはいけない感情でした。ただ戦争に負けただけならここまで恨むことはなかったでしょう、許せないなんて感情にはならなかったでしょう。

敗北した彼らを待っていたのは、移住という名の流刑でした。

二十八万石を誇った会津藩戊辰戦争に敗れ、明治二年、青森県下北半島や三戸を中心とする地に転封を命ぜられる。実収七千石の荒野に藩士とその家族一万七千人が流れこんだため、たちまち飢餓に陥り、斃れていった。疫病の流行、住民との軋轢、新政府への不満と反乱......。凄絶な苦難をへて、ある者は教師となって青森県の教育に貢献し、また、近代的な牧場を開いて荒野を沃土に変えた。知られざるもうひとつの明治維新史。

すぐに廃藩置県があり、この斗南藩はわずか一年半で消滅します。しかし、そのわずかな期間でも、多くの者が病に倒れ、死んでいきました。

廃藩置県により自由を得た彼らは、会津に戻る者、新天地へ向かう者、そして青森に残る者もおりました。

 

この作品には多くの方のエピソードが紹介されておりますが、印象的だったのが佐川官兵衛です。

佐川官兵衛 - Wikipedia

どんな思いで薩摩人である川路の依頼を受けたのでしょうか。そしてどんな思いで西南戦争へ赴いたのでしょうか。抜刀隊とか、名前見ただけでも涙が出そうになってしまいます。

 

永岡久茂も胸が苦しくなります。

永岡久茂 - Wikipedia

誰かがその恨みを晴らすような行動をしなければならない、という思いが理解できるからこそ、誰も止めなかったし、悪く言う人もいなかったのでしょう。

 

でも一番は、やはり広沢安任ですね。

広沢安任 - Wikipedia

死に物狂いで成功させた牧場に明治天皇が来て、さらに大久保利通が来たとき、彼の感情は、思いは、どんなものだったのでしょうか。私には想像さえできません、なのに胸が苦しくなって涙が出てきます。

さらにその時大久保から中央政府に勧誘されてるんです。広沢は固辞します。そりゃそうだとも思うし、参加していたらまた違っていたのかもしれないとも思ったり。でも会津の人々を思えば簡単には承諾できないし。

大久保が死んだとき、薩摩の人も会津の人も喜んだそうですが、広沢は違った感情を持ったようです。

 

関ケ原で負けた薩長土肥がその恨みを晴らしたのが明治維新です。

会津はいつその恨みを晴らすのでしょうか。どのような形でその恨みを晴らすのでしょうか。

恨むべき西郷も木戸もすぐに死にました。薩摩も長州も消滅してしまいました。でも、会津の人達にはその感情が消えておりません。そして、全く関係ない私ですが、その感情を消してはいけない気がしております。

青森県には斗南藩を伝承する施設がございます。

kite-misawa.com

simokita.org

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行きます。いつの日か、私は斗南藩を、会津の人達の生き様を胸に焼き付けるべく、必ず行きます。

最近明治維新を改めて評価する動きがあります。世界史的にも凄まじいことをやってのけたこの歴史的出来事に対して、改めて評価とか、何を言っているのか私には意味が分かりません。無意味だったと言いたいのでしょうか?間違いだったと言いたいのでしょうか?

しかし、このような闇の部分はあります。絶対にあります。その部分を隠すことなく、そして多くの人に知って貰うことにこそ、歴史としての意味があると思っております。

歴史と言っても、たった150年前の出来事なんです。

私たちは、これらを忘れずに、未来へ継承していかなければならないと思いました。

 

作者のインタビューがありましたので紹介しておきます。

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